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建築と都市、そこでの生活にまつわるあれこれ

現代建築を「作家性」で捉えるのは間違ってる。

現代に建築を作るとき、個人の作家性うんぬんというのはおかしい。建築家が個人の感性で仕事ができた時代はとっくの昔に終わっている。

 

時代を遡って考えてみよう。建築家が個人の感性で建築を建てていた時代。

 

例えば村野藤吾吉田五十八

彼らは茶室や高級住宅や料亭をつくった。彼らは裕福で文化的な家に生まれ、茶室や料亭の使用のされ方、そこでの人のふるまい、人が期待するものを経験として肉体化していた。茶室というものの総体を個人の中に捉えることができていたのである。

前川国男と坂倉準三。

彼らはフランスのコルビュジェのもとで西洋の公共性とはなにかを学び肉体化した。だから彼らは国際文化会館を彼らの感性でつくりあげたのだ。

 

建築家の作家性は目に見えない社会制度や文化を肉体化した個人が、建築を設計するときに自然に発露するデザインの好みの総体だった。

 

昔はそれでうまくいった。翻って現代はどうだろう。

 

いままで見えなかった環境が様々なデータで捉えられるようになった。建築に求められる公共性は一様ではなくなった。交通網の発達によって世界が近くなり、建築家は自分が属する共同体の外側でも建築を作るようになった。

現代の建築設計事務所はプロジェクト毎にその敷地が持つ文化、環境、その建築を使用する共同体に関する大量のデータを集め、それらのデータを統合しうる建築形態、工法、素材を取捨選択し、ひとつの建築にまとめあげる。

 

その大量の仕事を個人が捉えられるとは思わない。

現代はまさに「チーム」の時代なのである。