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建築と都市、そこでの生活にまつわるあれこれ

建築を大量生産すること

いままでは、地域固有のマテリアルの扱いや施工方法、習慣に精通した地元の建築家がその土地の建築をつくってきた。

けれど、様々なマテリアルの強度が分析されるようになり、施工方法が世界でゆるく一般化され、各国の習慣が情報として流通するようになった今日、これまた雑誌やインターネットの記事によって世界に知られるようになった世界的(!)建築家のもとに集中して世界中からあらゆるプロジェクトがまいこむようになった。

 

近代までとは異なるこの状況に、成功している建築家たちはどのように対応しているのだろうか。

 

 

1、量とスピードの問題への対応

あるひとりの人間の感性から始まった建築事務所に、ひとりでは到底手に負えない量の仕事が舞い込んできたとき(しかも現代ではその多くは信じられないくらい短期間での建設を望まれる。)、建築家は彼の創作方法を劇的に変更する必要に迫られる。

つまり、その建築家は自らの感性を外部化、言ってみればシステムに落とし込む必要に迫られるということだ。そのシステムを使って彼以外の人間が「彼の」建築をつくれるように。

まずは事務所のスタッフを増やす。

ある程度の人数までならばボスから始まるピラミッド的な組織の中で建物を作ることが可能だろう。(私の感覚ではだいたい50人くらいまでかな。)

そこからもっと人数が増えていくと、ピラミッド型の組織ではボスのコミュニケーションコストが膨大になり、意思決定のシステムとして成り立たない。そこでデザインのクオリティを維持できる事務所と、維持できない事務所が出てくる。

 

2、ローカル化の問題への対応

世界中で建築を建てるとなると、地域固有のマテリアルの扱いや施工方法、習慣に合わせて建築をつくる必要がある。ここでもデザインのクオリティを維持できる事務所と、維持できない事務所が出てくる。

 

 

多様な状況下でのクオリティの維持。

それを決めるのは、実はその建築家のデザインのあり方そのものだ。

 

 

例えば、ザハの事務所の所員数は400人を超える。大所帯で、スピーディーに、世界中でザハの建物を建て続けていけるのは、ザハのデザインが「わかりやすい」つまり、「共有しやすい」流線型の特徴的な形を持っているからだと思う。

他にも、SANAAは白い建物。隈研吾はルーバーと大屋根。

 

そのデザインのあり方が一種のルールとして、世界中に伝播していくのだ。

そのデザインルールはちょっとくらいの異物(現地のマテリアルとか、法規とか、施工精度とか)が入っても問題ないくらい骨太であることも重要だ。ローカライズできないデザインは致命傷だ。

 

 

近代の建築家は鉛筆を持ってノートにスケッチする人。建築家の事務所にはボスがいて、そのボスのスケッチをもとに図面や模型を作製するアシスタント的な人間が数人いるというのが一般的だったろう。設計される建物の美的判断はほとんどすべてをそのボスが決定していただろう。

現代の建築家は、デザインルールをつくり、それを世界中の多種多様な人々に伝える人。そのルールはシンプルでわかりやすく、共有しやすく、民主的だ。

 

 

アレキサンダーのパタンランゲージの現代版が今、世界中で展開しているのかもしれない。アレキサンダーは部分の設計から全体を構成しようとしたけれど、現代の建築家は多様な部分の設計を許容する、骨太な枠組みを提供するのだ。