CITIPEDIA シティぺディア

建築と都市、そこでの生活にまつわるあれこれ

Weworkのデジタル生産システムと日本のゼネコンの土着的生産システム

ソフトバンクとWeworkが日本で合弁会社を設立し、2018年から日本に順次シェアオフィスを作っていくという。

www.softbank.jp

 

日本の建設/不動産業界にとって、彼らが日本に参入する意味は大きい。

なぜなら、現在の日本の建設/不動産業界はデジタルデータを驚く程活用できていないからだ。

WeworkはCaseというBIMコンサルの会社と協業(のちに買収)してから従来の不動産会社でなく、テック企業となった。彼らのBIMを用いたオフィス生産システムはWirerdの記事に詳しい。

 

wired.jp

 

特に日本のゼネコンにとっての影響はきっとものすごい。

 

彼らは戦後に受注・設計・施工までを(関連する下請け業者と一体になって、)ひとつの会社でやるという生産システムを確立した。

そのシステムが21世紀の現在までうまくいっていたので、BIMへの対応が遅れている。(対応しているのは鉄骨製作会社くらいではないだろうか?)ゼネコンの中でBIMは”社内研究所”で研究されているというような遅れようで、ようやく最近、外資設計事務所またはクライアントに促されて使うようになってきたという感じだ。

その生産システムはIT革命前の基準では完成度が高かった故に、21世紀になっても戦後当時のやりかたのままほとんど更新されていない。システムは営業から現場の労働者の暗黙知によって回っているような特殊なしろもので、企画、設計から施工に至る各層の膨大な労働量によって成り立っている。

この古くさいシステムがここまで残ってしまったのは、戦後の経済発展のため国・自治体から発注された膨大な公共工事が、彼らになんの試練も与えずに生かしてきたこととも関係がある。

 

けれどもこのゼネコンの生産システムも、これから3年程度でソフトバンクとWeworkの影響によって終了を迎えることになるだろう。

彼らはそのうちオフィスだけでなく、さまざまなプログラムの建築を彼らのデジタル生産システムの中に取り入れる。その効率的で機能的なシステムに、戦後から続いた牧歌的なゼネコンのあり方は、根底から覆されることになるに違いない。

 

 

シェアと移動の時代の住まい

近所に、フレディ・レック ウォッシュサロン トーキョーがオープンした。連日布団を自転車に積み込んだ人たちがたくさん集まってきて、洗濯したり、併設のカフェでひとりで、または何人かでくつろいでいる。
 
何年か前に日本でも洗濯乾燥機が普及し、洗濯物を干すための庭やベランダは住宅に必須のものじゃなくなった。そして今では、気軽に使えて、待ち時間にも隣接したカフェで読書したり、友達とおしゃべり出来る"ソーシャルな"コインランドリーが普及しようとしている。この結果、洗濯機置場は住宅に必要じゃなくなる。
 
ここ数年で住宅に必要なスペースは激減してきた。先にあげた、物干しスペース、洗濯機置場、カーシェアリングの普及によって車庫も必要ない。pcでtvが見れるのでtv台置場も必要ない。電子書籍が普及してきたので本棚も、書斎も必要なくなった。
 
一方でモバイル機器やネットの発展によって、人はますます多く移動するようになった。旅がそのまま生活になってる人もいるし、3~4年ごとに住む場所を変える(国を超えて)なんて普通だし、2拠点、3拠点居住してる人は身近にたくさんいる。頻繁な移動のために、人は身軽でいたがっている。
 
それ後押しするように、最近のアウトドアウェアは数枚をレイヤードすることで春夏秋冬快適に過ごせる服を開発してきたし、家具は適当な性能のものがローコストで買えるようになった。つまり、手荷物は少なく、持ち運べない大きなものは現地調達しやすく。
 
これから日本は人口が減って、土地や建物が余るだろうといろんなところで言われているけれど日本のどこもかしこもに空き家出るにではなくて、きっとすごく余るところと、すごく密なところの二極化するんだろうと思う。東京はもっと密になる。沖縄やニセコなどの風光明媚なところも密になる。なぜなら、人口が減る代わりに、人々が土地や家を2つ3つ持って移動しながら生活する時代になるから。
 
その時の住居に求められるのは、良い睡眠が取れて美味しい食事が作れて、たまに人を呼んでささやかなパーティができる、というようなことだろうと考えてる。
車や洗濯機はシェアできるし、持ち物は少ないからこれまでよりも小さな住まいでいい。ひとり、または家族、パートナーと効率的に使える空間であり、たまには人を呼んでホームパーティをしたり、ワークショップをできるような空間。

都心部、大規模再開発案件のキーパーソン

オリンピックに向けて東京都心部は再開発プロジェクトが盛りだくさんだ。

 

再開発案件はその規模からいってもステークホルダーが多く、物事を進めるのがとても厄介だ。

ところでさまざまいるステークホルダーで一番発言権を持っているのはやはり地主さんである。

昨今では東京都で大きな土地が使えるところなんて、沿岸部(今話題になってる豊洲とか)か、もともと都が何かの施設として活用していた土地なので、地主さんと言っても、現在の地主さんではなく、戦後の東京大開発の時に都に土地を提供した地主さんと都との主従関係みたいなものが現在まで続いていて、その時の地主さんが再開発案件に要望を出したりする。

 

地主さんは大概お年寄りで、まちへの愛着が強く、まちのグランドデザイン構想を持っている。そしてそれは時代遅れな事が多い。

だって、彼らは、グローバル革命、デジタル革命以前に大半の人生経験を積んでるわけで、そんな彼らがこの革命以後の世界を正確に捉え、まちづくりの指針を出せるわけがないのである。

 

そんな訳で、ニューフロンティアであるネットの世界と違って、日本の都市、建築の世界にはなかなか革命が起きないのである。

 

革命があるとすれば、地方のあまり人が住んでいないような場所に若くして大金をつかんだ若者が、(そしてそれは日本人とは限らないだろう)一気に新都市を作り上げるようなものだろうと思ってる。

 

 

 

 

CITIPEDIA

これまで、

 

住宅から大規模再開発、まちづくりまでのさまざまなスケールで、

友達夫婦からベンチャー企業、大企業、学校法人、自治体までさまざまなクライアントと、

アジア各都市でさまざまな建築・都市プロジェクトに

関わってきました。

 

その時々で得た気づきを百科事典的に書き留めていこうと思います。

なので、タイトルを "CITIPEDIA"に変更しました。

 

よろしくお願いします。

最近ハマったTVドラマ4つ

"Netflix",  "Amazon Prime", "Hulu"と、映像ストリーミング配信会社が日本でぞくぞくサービス開始したので、最近はこれらを見るのにはまってます。

(Huluは2年くらい前から加入していたのだけれど。)

 

よく見るのは映画よりもTVドラマ。

 

特に英語圏で製作された歴史物とビジネスものをよく見てます。自分が生きている環境とは異なる社会のあり方を描いたドラマが好きなんです。

映画がひとつのストーリーを展開していくのに対して、TVドラマはある舞台設定の中で様々なエピソードが展開されていくので、映画よりもTVドラマの方が舞台に設定された場所・時代の社会のあり方を描くのに適している気がします。

 

ではでは、以下に4つ紹介します。

 

 

1、Vikings

www.history.com

 

8世紀のスカンジナビアを舞台に、ヴァイキングの生態を描いたドラマ、"Vikings"。

アイルランドとカナダの共同製作。

Amazon primeで1st seasonが見れます。

 

ヴァイキング vs クリスチャン(イングランド)。

ヴァイキング社会(政治、宗教、家族形態、集落の様子など)が、当時の衣服・食事・住まいなどが詳細に表現されて描き出されます。ヴァイキングという民族を知るにはもってこいのドラマ。

 

特に、キリスト教の価値観(一神教、終末思想)とヴァイキングの価値観(多神教、ヴァルハラ、生け贄)が交錯しあうのがおもしろい。

このドラマや、"ローマ人の物語"のような本を読んでいると、キリスト教みたいな一神教はなにか人間の営みとして不自然な感じがしてしまうんですが、それは私が未開の民だからでしょうかね。

 

”VINLAND SAGA” 幸村誠著 を合わせて読むのがおすすめ。

こちらも10世紀のヴァイキングの様子が丁寧な絵で描かれた、とてもおもしろい漫画です。

 

 

 

2、Downton Abby

www.pbs.org

第一次世界大戦を挟んで激変する社会の中で、伝統を重んじる英国貴族とその使用人が時代に翻弄される姿を描く英国ドラマ、"Downton Abby"。

Huluで3rd seasonまで見れます。

 

激変する社会の中で必死に己の幸せを求めて生きる姿は、同じく激変する現代社会に生きる私達の姿と重なります。

 

第一次世界大戦後の激動する社会の様子は本で読んできましたが(経済史や社会学の本など)、マクロな変化がミクロな変化、すなわちその時代を生きる人々の生活の変化にどうつながっているのかは本ではなかなか把握することが難しいものです。

 

このドラマではDownton Abbyと呼ばれるお屋敷に住む貴族とその使用人達の生活を描くことによって、時代の変化に翻弄される人々の生活を生き生きと描いています。

まさに真理は細部に宿る。

このドラマとそれまでに読んだ本の知識が重なりあって、私の中で当時の時代の変化(グローバリゼーション、経済体制の変化、貴族の没落と新興階級の台頭、などなど)が立体的に浮かび上がってきました。

 

世界の変化はいつだって不可逆。

変化の兆しを感じたら、その波に思い切って乗っていくしかないのです。

 

 

 

3、SUITS

www.usanetwork.com

 

アメリカ、ニューヨークの法律事務所で繰り広げられる、ビジネスと人間関係のドラマ。

Huluで3rd seasonまで見られます。

 

最初、スタイリッシュな服とインテリアのデザインに惹かれて見始めたのですが、見ているとニューヨークのビジネスルールとビジネスの中でインテリアデザインが果たす役割がわかります。

 

ビジネスについては、深夜におよぶ労働時間・会社内でのヒエラルキーとチーム運営・白人と黒人の間の摩擦・アメリカ人とイギリス人の間の摩擦などが描かれています。

日本の働き方と似ていたり、異なったり。

最近、働き方についての言説がネットや本にあふれていますが、同じ現象を説明していても、文章で読むのと、映像で見るとでは印象が違います。

 

インテリアデザインについては、舞台となる法律事務所が、ガラス張りのアトリウム・バカ高い天井・石、メタル、皮を基調にしたデザインで、アメリカではこうした空間が誠実・威厳をイメージさせるんだなあと納得しました。

写真で見るよりも、あるストーリーの中で人が利用している様子を映像で見るほうが、そのインテリアデザインがどのような役割を果たしているのかがわかりやすいです。例えばパートナーミーティングの場所となる会議室での机とイスの配置だったり、パートナーの個室にある家具の使われ方だったり。

 

ビジネスの現場にインテリアデザインがどう作用しているかの勉強になります。

 

 

 

4、HOUSE OF CARDS

houseofcards.tumblr.com

 

製作総指揮:デヴィット・フィンチャー、ケビンス・ペーシーで描く、アメリカ政治の権力闘争を描いたドラマ。

Huluで1st seasonが、Amazonで2nd seasonが見られます。

 

アメリカと中国、女性の社会的役割、黒人と白人、政治とジャーナリズム、権力と情報(操作)。"SUITS"がマンハッタンを舞台に20代〜40代のビジネスマンの生活を描いているのに対して、こちらはホワイトハウスを舞台に40代〜60代の政治家達の生活を描いています。

 

特に、ドラマの中で描かれている、グローバリゼーションが進む中でのアメリカの政治戦略(中国が台頭する世界の中での自国の立ち位置、国内の教育・産業政策、などなど)と、メディアを使った政治の駆け引きが面白いです。

アメリカではジャーナリズムは国民に対して政治の情報を提供する手段であるのと同時に、政治家にとってはホワイトハウス内部での権力闘争の武器として利用されるものでもある。ある情報が国民に暴かれることで失脚する政治家と、権力の階段を上る政治家がいる。

メディアが政治家同士の戦いの武器として使われることで、国民に対しては政治の透明性が高まるという。

 

それから、このドラマの中ではいろいろな女性の生き様が描かれていてそれも面白いです。政治家の妻であり、NGO団体を主催するクレア、ジャーナリストのゾーイ、政治家のキャサリン、などなど。

女性が妊娠・出産、キャリア、恋愛・結婚生活に悩む姿は日本でもアメリカでも変わらないんだなあ。

 

 

また、おもしろいTVドラマがあったら紹介しますね。

 


 

 

 

都市デザインとお金と日本人(1)

春の週末に遊びに行った友達が住む公営団地では、いい感じにほったらかされた草花が春風にほわほわと揺れていて気持ちよかったなあ。

あの環境は、年月が経ってよくなったもののひとつ。 ただし、住戸内の水回り設備や間取りはやっぱり昔ながらで、今の生活にはマッチしない。

 

古くなった公団はさ、定期借地で住戸を売り出すことじゃないかな。

どうせ原価償却はできてるだろうから格安で。2dk 期間15年で1000万円とか。買った人は500万円くらいで水回りまでリノベーションして住めるよね。

 で、引っ越したくなったら人に売れる。もしかしたら資産価値を上げて売ることができるかもしれない。10年単位でもいいかも。10年で700万円とか。

 

 

日本の戸建住宅に資産価値がないのは、それが建つ住宅地の街並みが形成されてないからだよね。魅力的に形成されていない。木造だからとかは関係ない。

 

そして街並が魅力的に形成されていないのは、日本人の金の使い方がヘタだからなんじゃないかと思う。

金をうまく利用して一体的な土地活用ができていないから魅力的にならない。

金を個人がちまちま使って粗悪な建て売り住戸の街並を作った成れの果てが、今の日本の景観。

 

現代建築を「作家性」で捉えるのは間違ってる。

現代に建築を作るとき、個人の作家性うんぬんというのはおかしい。建築家が個人の感性で仕事ができた時代はとっくの昔に終わっている。

 

時代を遡って考えてみよう。建築家が個人の感性で建築を建てていた時代。

 

例えば村野藤吾吉田五十八

彼らは茶室や高級住宅や料亭をつくった。彼らは裕福で文化的な家に生まれ、茶室や料亭の使用のされ方、そこでの人のふるまい、人が期待するものを経験として肉体化していた。茶室というものの総体を個人の中に捉えることができていたのである。

前川国男と坂倉準三。

彼らはフランスのコルビュジェのもとで西洋の公共性とはなにかを学び肉体化した。だから彼らは国際文化会館を彼らの感性でつくりあげたのだ。

 

建築家の作家性は目に見えない社会制度や文化を肉体化した個人が、建築を設計するときに自然に発露するデザインの好みの総体だった。

 

昔はそれでうまくいった。翻って現代はどうだろう。

 

いままで見えなかった環境が様々なデータで捉えられるようになった。建築に求められる公共性は一様ではなくなった。交通網の発達によって世界が近くなり、建築家は自分が属する共同体の外側でも建築を作るようになった。

現代の建築設計事務所はプロジェクト毎にその敷地が持つ文化、環境、その建築を使用する共同体に関する大量のデータを集め、それらのデータを統合しうる建築形態、工法、素材を取捨選択し、ひとつの建築にまとめあげる。

 

その大量の仕事を個人が捉えられるとは思わない。

現代はまさに「チーム」の時代なのである。

グローバリゼーションと共同体の機能

最近、生きて行く上で収集して処理しなければならない情報が昔より格段に増えていると感じる。具体的には子育てのことだったり、健康管理のことだったり、お金に関することだったり。

情報処理が不得意な人にとっては相当に生きづらい世界なんじゃないか。

 

昔は集落の共同体の中に生きて行く上で必要な情報が蓄積されていて、その共同体に属する人は適宜教えてもらうことができた。日本では近代にその集落が産業の大転換により破壊された後は、会社がその共同体の役割を代替してきた。

つまり、「国→集落・会社→個人」という図式。

 

今、その共同体としての会社もなくなりつつある。

つまり、「国→個人」に。

 

さらには、世界がグローバル化する中で、個人にとっての国の定義も曖昧になりつつある。

つまり、「世界→個人」に。

 

国、集落、家、会社という制度から個人がどんどん自由になるのと同時に、個人に課される人生への責任もどんどん重くなっている。

世界と個人をつなぐ共同体がなくなり、個人が「自己責任で」生きていかなければならなくなったとき、幸せな人生を送れないのは社会が悪いのではなく、全て個人の責任ということになる。

 

情報の収集、処理は個人よりも大人数でするほうが格段に効率がいい。だから、一般人は共同体に属することでその共同体が提供する「幸せな人生」をある程度享受することができた。情報処理能力の高い人も低い人も。

もちろんそこにはいくばくかの不幸があったのは事実。家父長制度での女性の奴隷的な扱いや、会社制度における左遷とか。 けど、共同体が崩壊して個人が自分の人生への責任のほぼ全てを背負うことになったら、不幸になる人の数は格段に増える。

 

 

古来から移動が多い民族は自分たちと世界をつなぐバッファーとなる共同体をきちんと持っている。

宗教の影響が大きい欧州や米国では、教会が世界と個人をつなぐ。

つまり、「世界→教会→個人」。

家族の連帯が強い中華系の民族は大きな家族が共同体としての役割を果たしている。

つまり、「世界→血のつながり→個人」。

 

 

これから激動の時代を生きる日本人は世界と個人のバッファーとなる共同体をうまくつくることができるだろうか。それはSNS?新手の宗教?集落生活に戻ること?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンサルタントとしての建築デザイン

中国や他の新興国で依頼される仕事というのは、ゼロベースのものが多い。

 

ゼロベースというのは、真っさらな土地にホテルと商業施設とコンベンショナルセンターを計画したいんだけど、とりあえず絵を描いてみて。」という依頼のこと。

規模も決まっていない、収容人数も決まっていない、予算も決まっていない、施設のコンセプトも決まっていない、土地はまっさら。

 

そういう依頼に応えるために、建築家は線を引く。

・その土地の歴史、環境、特産物、植生などなどをリサーチし、

・計画される建築のコンセプトを作り上げ(それは、ディズニーランドのようなスペクタクルなものか、ランドスケープに埋もれてみえないものなのか、などなど)

・与えられたプログラムに対する基本ボリュームから、その土地に最適な施設のボリュームを導きだし、

・魅力的なCGパースを作り上げる。

 

先進国では「コンサルタントマッキンゼーとかアクセンチュアとかBCGとか)」と呼ばれる人たちが人口動態の調査・各プログラムの規模の設定・それらの収益率の計算などなどをして、プロジェクトの戦略をまとめた後に建築家が入ることが多いのに対して、今まさに猛烈なスピードで成長している新興国では、戦略のアウトラインを描くことが建築家にも求められる。

 

コンサルタントが「金」の戦略を練るのに対して、建築家は「イメージ」の戦略を練る。「金」の戦略が目に見えない、抽象的な流れを扱っているのに対して、「イメージ」の戦略はどこまでも具体的で、泥臭く、触感がある。

 

コンサルタントと建築家、扱うものは全く異なるけれども、やっていることは案外似ている。

ハワイの生きる空間

ハワイに行ってきた。

 

小さな子を連れての旅行だから、飛行時間が長すぎないこと、ホテル近くで楽しめることと、ぼーっとできる自然豊かな場所、で選んだらハワイになった。

で、行ってみたら大正解。さすが先輩パパママがこぞって進める場所だ。

 

子供だけじゃなくて、大人も楽しめた。気付きがたくさんあった。その土地の気候にあったリゾートの作りとか。建築だけじゃなくて、アートや食べ物と建築と音楽と自然がみごとに調和してた。

 

 

ハワイは毎朝のように雨が降る。その雨は草木や地面をしっとりと濡らして8時頃までには止み、登っていく太陽はあらゆるところに残る水滴をきらきら輝かせて1日の始まりを祝福してくれる。

 

宿泊したモアナサーフライダーの中庭には大きなバニヤンツリーがあって、それを囲うようにレストランのテーブルが配されている。木の向こうにはもちろん青い海が広がる。

 

バニヤンツリーに面するレストラン室内の白い壁にはオキーフ(たぶん)の油絵が飾ってあった。バニヤンツリーに付着したキラキラした水滴がしたたり落ち、艶かしい情景を作る。その艶かしさはオキーフの絵と呼応して空間を作っていく。

 

その空間で私たちはトロリとしたバターとシロップをかけたふわふわの甘いパンケーキやねっとりとしたパパイヤを食べる。 耳にはウクレレの瑞々しい音と鳥のさえずり、波の音が聞こえてくる。海からの風が柔らかく頬をなでていく。

 

五感で感じるもの全部が調和しひとつの艶やかな空間を作っていました。

 

 

最近は仕事や子育ての忙しさにかまけて出張以外の海外旅行に行ってなかったのだけど、やっぱり旅は定期的にすべきだと反省。日本と自然環境、人種構成、経済状況が違うところは参考になる。 仕事絡みの旅だとクライアントがいろいろもてなしてくれるから、能動的に動くことがあまりできないし。

 

ハワイの本は池澤夏樹さんの"ハワイイ紀行"がおもしろかった。 と、opentable.comのレストラン予約システムはめちゃ便利。いい時代になったなあ。

 

 

ハワイイ紀行 完全版 (新潮文庫)

ハワイイ紀行 完全版 (新潮文庫)

 

 

"愛の島々 Love in the south sea"

ベンクト・ダニエルソン"愛の島々 Love in the south sea"を読む。

 

愛の島々 (1958年) (人と自然叢書)

愛の島々 (1958年) (人と自然叢書)

 

 

性と文化、宗教が密接に結びついていた1700-1800年代のポリネシア人達の生活をクック船長他の旅行記を紐解きながら記述した本。西洋からの訪問者(船乗と宣教師)によって、あっという間に既存の文化が塗り替えられていくさまを記述。

 

現在ではポリネシア人が生きてきた独特の世界は消滅し、西洋の船乗たちの快楽の経験が資本主義経済の商品"南の楽園"として変形再生産され消費されるだけ。

 

歴史的建造物に対する態度ー日本人の場合。

最近、丹下さんや、黒川さんがデザインした日本の近代建築の多くが取り壊されかかっているよね。

 

日本は欧州に比べると、歴史的建造物が結構簡単に壊されてしまったり、壊されていなくてもうまく活用されていなかったりする印象があるのだけれど、それが何故なのかを考えてみた。

 

そもそも建築は社会制度・理念を世に定着させるための道具。

 

だから昔に建てられた建築は、その当時の社会制度・理念が反映されたデザインになってる。もちろん、社会制度・理念は建築があればよいというものではなく、その建築に働きかける人間の営みがあってこそ世に定着する。

 

古代→中世→近代→現代と時代を経る中で、社会制度・理念は変化してきたから、ある時代に建てられた建築は、時を経て社会が変わると「用なし」、「奇妙」、「使いづらい」建物になる。一方で、建築はある時点での社会制度・理念を反映しているからこそ、「歴史」的建造物なのである。

 

この「歴史」は利用することができる。ある制度のための建築に当初の目的とは異なる営みが加えることで、その建築が当初背負ってきた制度、理念を換骨奪胎して別の目的のために運用する。

そうやって古来からの建築をうまく使ってきたのが欧州。歴史をうまく運用してリーズナブルに社会制度を更新してきた。

 

一方で日本は、第二次世界大戦後の徹底的な既存政治体制の否定と、産業の大転換(農業から工業へ)によって、欧州のように過去の蓄積を思想的にも建築的にも生かすことができなかった(禁じられた)。

 

現在の日本で人々の歴史的建築物への愛着が少なかったり、うまく活用できていなかったりするのは、この後遺症なのかも。

アイコニックな建築による都市デザインの終焉?

この間、DezeenでH&deのチェルシーのスタジアムデザインをみつけました。

 

www.dezeen.com

 

建築的にも、都市デザイン的にも、とても良く出来たデザインだと思います。

私は好きです。

 

かつてFrank. O. Gehryのビルバオが都市への観光客を呼び込みに成功し、都市の魅力を高めて都市を潤すための建築デザインはかくあるべし、とお手本のようにみなされていた(つまりアイコニックな建築は都市の起爆剤となって観光客の増加に寄与するので都市デザインにこの方法を取り込むべし、とされた)。けれど、そうやって一時的に観光客数を増やした都市は20年が経とうとする今でも果たして魅力的な都市としてあるでしょうか?

 

H&deのChelseaスタジアムは上記のようなアイコニックな建築による都市デザインのカウンターパートとして見ることが可能です。

 

その土地にある既存のデザインソース(この場合レンガとスチール格子)を利用することで、この都市にレンガの総量が増えます。今回はスタジアムという巨大な施設なので大量に。この「大量のレンガ」は都市全体の視覚的なアイデンティティを強める。

 

「大量のレンガ」が他所との差別化につながってその都市を特別な都市にする。観光客が増えて都市が潤う。アイコニックな建築はそれのみでデザインが完結してしまうけど(しかも賞味期限が短い)、既存のリソースを利用したデザインは都市の歴史に連なって、その都市を成長させることができます。そしてそのデザインは「開かれて」いる(それだけで完結していない)ので、未来に他の人が新しいデザインを接続することも可能です。

 

現在の国際的な都市間競争の中で、建築はもはやそれ単体のデザインとしてはそれほど意味がなく、都市の魅力を高めるためのひとつのパーツとしてデザインされたほうが、費用対効果が高いんです。その建築が得るリターンも大きくなる。

 

私は日本の国立競技場もザハのデザインでなくてよかったと思います。お金云々もあるけど、ザハのデザインをあの場所に作るのは時代遅れの都市デザインだと思うから。

40代で若手ってなんなの、のつづき。新しいチームワークを考えてみる。

前回の続き。

 

ちなみに前回あげた建築家という職能に求められる技能の(1)〜(14)は建築設計事務所が成長する過程で順番に身につけていく。

 

<第一期>住宅をつくっている時期:

個人に対しての建築は(1)〜(6)までの技能があればなんとかなる。

<第二期>小さな公共の建物をつくりはじめた時期:

とたんに(8)、(9)が必要になる。つくられる建築の承認を求める相手が「あなた」から「みんな」に飛躍的に増えるからだ。「みんな」の合意を取り付け、提案する建築を建てることへの承認を受けるには効果的なプレゼンテーションと適切な合意形成の技術が必須だ。

 

<第三期>大きな公共の建物をつくりはじめた時期

規模が大きくなると、よりいっそう求められる技能は増える。

まず、巨大な建築はそれが作られる都市・街が持っている文化に与える影響が大きいから、それを検証しなければならない。検証のために都市計画の知識やまちづくりに関する知識が必要だ。もちろん、その地域の文化に対する造詣も。

同様に巨大な建築はその地域環境に与える影響も大きい。その建築がどの程度サスティナブルなのかを検証しなければならない。(自然エネルギーを効果的に使っているとか、エネルギーのリサイクルをしているとか。)

それから、大きい建築はそれを建てるのに莫大な金と時間がかかるが、通常クライアントはそれを可能な限り圧縮することを望む。現在はIT技術の進歩のおかげで、それを大幅に圧縮することが可能なので、これを実践することを求められることも少なくない。今はやっているのはBIMと呼ばれる図面の作成方法だ。図面をすべて3Dモデルで作成し、かつ、その3Dモデルを意匠・構造・設備・積算・施工で同時に共有しようというもので、この技術によって図面作成(設計・施工時とも)の時間と積算の手間が大幅に省ける。このアプリケーションを習得するのも結構大変だ。

 

 

これまで、こういった多様な技術・知識を各建築設計事務所は個々の事務所で身につけようとしてきた。

だけど、こうした技能を身につけるには時間と人手がかかる。(ひとりの人間がこうした多様な技能を完璧に習得するのは不可能だ。)だから成長過程の第三期に入った建築設計事務所は所員数も多くなる。

 不運にも住宅しか仕事が無い事務所の場合は(1)〜(5)までの技術しか身につけられない。現在のところ、住宅を仕事にしている場合、一般的に(6)から先の技能は必要とされないからだ。けれど、よくよく考えれば住宅こそ、地域をかたちづくる重要なパーツだ。ここに(6)から先の技術を投入することによってこそ、今の社会に適した新しい地域環境が形作られるはずだ。

 

 

なにを言いたいのかというと、こうした技能をひとりの建築家、あるいはひとつの建築設計事務所にもとめるのはやめたらどうなのか、ということ。

(1)から(16)まですべてが得意な建築家や建築設計事務所は多くないはずだ。だから、もうちょっと個々に専門化した小さな組織が緩やかにつながり、プロジェクトごとに必要なチームが集まって、フレキシブルに仕事を進めていくような新しい建築設計チームのありかたはできないんだろうか。

 studio Lのような事務所がうまくいっているのは、これまでこうした仕事は建築設計事務所や都市計画事務所に任されていたけれど、うまくやれていなかったからなのではないんだろうか。

その原因は建築設計事務所に求められる技能が増えすぎて、対処できなかったからではないのだろうか。

 

おもしろい未来をつくるためには、おもしろい組織づくりも必要なんだな、と最近よく考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

40代で若手ってなんなの

建築家は40代のおじさんおばさんでも若手と呼ばれる。

実際のところ、そう思う。

 

建築家が運営する設計事務所の成長過程を段階的にみていくと(これまでのところ昔から変わらず)以下のような感じだ。

まずは知り合いの小さな住宅をつくり(第一期)、そのうち運が良ければ小さな公共の仕事(1000m2程度の)を獲得し(第二期)、小さな公共の仕事をいくつかこなすことで実績を積み上げより大きな公共の仕事を得る(第三期)。

一般的にここまで達成できるのがだいたい40〜50歳くらいで、ここまでできたら建築家として一人前、みたいな意識が建築家業界にはある。

(ここで公共というのは、いわゆる役所の公共工事に限らず、多数の人々によって使用される建物のことをさしている。)

 

なぜ建築家と呼ばれる職業が一人前になるのにこんなに時間がかかるのかというと、この職能に求められる知識・技術が多いからなんだと思う。それらの知識・技術を習得していて、かつうまく使いこなせる事務所なんですね、とクライアントから認定され、仕事をつぎつぎと取れるようになるのに時間がかかるのだ。

そしてこれらの技能はますます多様化している。

ちょっと下にあげてみよう。

 

(1)、空間把握の技術

(2)、工法に関する知識

(3)、素材に関する知識

(4)、積算に関する知識

(5)、建築ディティールの知識

(6)、建築法規に関する知識

(7)、建築計画に関する知識

(8)、合意形成(PR)の技術

(9)、プレゼンテーションの技術

(10)、都市計画の知識

(11)、まちづくりの知識

(12)、サスティナビリティに関する知識

(13)、3Dデザインに関する知識

(14)、BIMに関する知識

 

しかもIT技術の発展によって、生産プロセスに大きな変化が起こっている今日では、求められる技術はますます増え、複雑化していくと思う。

 

そうなったら建築家が建築設計事務所を一からつくって一人前にするにはもっと時間がかかる。60代で若手とか。。

それはなんだかなあ。

ほとんど未来のないおじいさんより、未来を担う30代40代がつくる方がこれからの未来に適した建築をつくれる可能性も高いんじゃないか。(おじいさんの作る建築を全面的に否定している訳ではない。)

 

もしくは建築設計事務所はなくなって、ゼネコンとか組織設計事務所とかみたいに長い年月知識・技能を社内に蓄積してきた会社にしか建築はつくれないことになるのではないか。

それもなんだかなあ。

だって、私は時代のイメージを変えるような建築は建築家と呼ばれる人の事務所がつくってきたと思っているし。

 

じゃあ、どんな方法があるのか考えてみるのが次の話。