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建築と都市、そこでの生活にまつわるあれこれ

グローバリゼーションと共同体の機能

最近、生きて行く上で収集して処理しなければならない情報が昔より格段に増えていると感じる。具体的には子育てのことだったり、健康管理のことだったり、お金に関することだったり。

情報処理が不得意な人にとっては相当に生きづらい世界なんじゃないか。

 

昔は集落の共同体の中に生きて行く上で必要な情報が蓄積されていて、その共同体に属する人は適宜教えてもらうことができた。日本では近代にその集落が産業の大転換により破壊された後は、会社がその共同体の役割を代替してきた。

つまり、「国→集落・会社→個人」という図式。

 

今、その共同体としての会社もなくなりつつある。

つまり、「国→個人」に。

 

さらには、世界がグローバル化する中で、個人にとっての国の定義も曖昧になりつつある。

つまり、「世界→個人」に。

 

国、集落、家、会社という制度から個人がどんどん自由になるのと同時に、個人に課される人生への責任もどんどん重くなっている。

世界と個人をつなぐ共同体がなくなり、個人が「自己責任で」生きていかなければならなくなったとき、幸せな人生を送れないのは社会が悪いのではなく、全て個人の責任ということになる。

 

情報の収集、処理は個人よりも大人数でするほうが格段に効率がいい。だから、一般人は共同体に属することでその共同体が提供する「幸せな人生」をある程度享受することができた。情報処理能力の高い人も低い人も。

もちろんそこにはいくばくかの不幸があったのは事実。家父長制度での女性の奴隷的な扱いや、会社制度における左遷とか。 けど、共同体が崩壊して個人が自分の人生への責任のほぼ全てを背負うことになったら、不幸になる人の数は格段に増える。

 

 

古来から移動が多い民族は自分たちと世界をつなぐバッファーとなる共同体をきちんと持っている。

宗教の影響が大きい欧州や米国では、教会が世界と個人をつなぐ。

つまり、「世界→教会→個人」。

家族の連帯が強い中華系の民族は大きな家族が共同体としての役割を果たしている。

つまり、「世界→血のつながり→個人」。

 

 

これから激動の時代を生きる日本人は世界と個人のバッファーとなる共同体をうまくつくることができるだろうか。それはSNS?新手の宗教?集落生活に戻ること?